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私の一言(掲示板) ディクル工房の代表を勤めている清水でございます。
ブログとまで言いませんが、
日頃より写真に関して感じていること、それが何故、ディクル工房を起ち上げたかを
この「私の一言」に掲示いたします。皆様のご意見をいただけると嬉しく思います。
写真について 2010年7月1日
写真に対する考え方は人それぞれです。
私は、人はなぜ絵を書き、写真を写すのか。というテーマに取り組み写真について考え研究を続けてきました。人類の歴史の中でおよそ4万年前の洞窟に人が描いたと思われる壁画が残っています。何故、人は絵画を残すのでしょうか。
この問題について考えていると、日本の高名な画家の言葉が思い出されます。
「私は、描くことは祈ることである。」とーーーー(東山魁夷)。親はなぜ子供の写真を飾るのでしょうか。
そこには、親の子どもに対し「元気に育つ様にーーーー。」と祈りにも似たものがあるのでないでしょうか。
また、美しい風景を写真にし、その写真を部屋に飾り、それを日々眺めていると、そこから語りかけて来る物語に一時の陶酔にも似た喜びを感じます。
さらに、大事な人の写真を何時も持ち歩くことは、その人と共に何時も歩み続けるーーー。と言う「同行二人」的「思い」が生じるのでないでしょうか。この様なことを考えていると、写真は『思い』がぎっしり詰まった器の様な気持ちが沸き上がって来るのです。
この『思い』は『思い出』よりも、「思い」の中に込められた「祈り」の様なものが潜んでいるような気がします。それで、私は「写真は、『思い』がぎっしり詰まった器です。」と言うコンセプトに到達したのです。
写真が持つ3つの喜び 2010年7月8日
写真には3つの喜びがあります。
1 頭に描いたイメージの被写体に遭遇し、それにカメラを向けシャッターを切る瞬間の喜び。
2 シャッターを切りメディアに保存された(銀塩写真をも含む)画像を元に、写真を作る喜び。
3 その作った写真を鑑賞する喜び。
の以上3つです。以前(銀塩写真時代)は、2つ目の喜びを得る人の数は少なく極一部の人に限られていました。ましてやカラー写真となると、ほとんどの写真愛好家は人任せ(現像オペレータ)で、極々一部の人が現像オペレータと話し合い自分の写真を作っていました。
しかし、時代が進みIT技術の進歩で誰でもが容易に写真を作ることができるようになり、2つ目の写真を作る喜びを自分のモノにすることができるようになりました。ですが、考えてみると3つ目の喜びを完全に自分のモノにしている人は、果たしてどの位いるでしょうか。
もしかすると、簡単に作った写真を机の引き出しに仕舞い込み、そのままになりその写真が何時しか机の引き出の中で色褪せてしまい、せっかく作った写真をそのままゴミ箱に行ってしまうのが今の時代でないでしょうか。また、今の時代、写真を電気的にメディアに保存することができます。
しかし、メディアに保存された写真は机の引き出しに仕舞込まれた写真と同じように、何時しか忘れ去られているのが現状ではないでしょうか。せめてもの救いはデジタル化されているため色褪せが少ないーーー?と、云うことです。
ロンドン塔の落書き 2010年7月15日
私は、「どうして人間はイメージを残すのかーーー」と言うテーマについて考える時、学生時代に学んだ「ロンドン塔の落書き」が思い出されます。
私はイギリスには行ったことがありません。あくまで私の机上の知識ですがーーー。
欧州の中世史を学んでいた時、「ロンドン塔の落書き」について研究するゼミに参加し、そこで学んだことが強烈に私の脳裏に残っています(http://members.jcom.home.ne.jp/invader/works/works_2_b.html)。その衝撃が、今の私を作り上げた要因の一つでないかと考えます。
人間にだけ許された、イメージを残す行為ーーー。権力闘争の結果とは言え、人間として生まれた人が他人によって自由を奪われ、暗い牢獄に幽閉されている時、考えることは、愛する人への「思い」であり、ふる里への望郷であり、拘束する者への恨みであり、自分自身への嘆きでないだろうかーーー。
幽閉されている人々は、何時訪れて来るか分からない、他人から自分への抹殺に戦きながら日々生きて行かなければならない心境に、人間として残されたせめての行為は牢獄の壁へ自分自身が、この世に生きていた証を刻み込むことでなかったでしょうか。
それが900年経った今もロンドン塔の壁面に残っているそうです。
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ボッティチェリは何故「ビーナスの誕生」を制作したか No.1 2010年8月6日
「ビーナスの誕生」の作者はサンドロ・ボッティチェリで、1483年頃の制作と言われています。寸法は172.5cm×278.5cmでフィレンツェのウフィッツィ美術館に保管されています。
当時、欧州は中世末期でローマ・カトリック教会の宗教的主題に従って描かれる絵画が大半であったことから考えると、この作風は異教的と考えざるえないところがあります。事実ボッティチェリの数多くの作品は「異教的」と云う理由から焼き尽くされています。
この「ビーナスの誕生」が炎から逃れることが出来たのは、ボッティチェリが時の権力者ロレンツォ・デ・メディチと大変親交が厚い間柄にありメディチの権力のおかげで、「ビーナスの誕生」は教会勢力の非難から守られたと言われています。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/ヴィーナスの誕生)ここでボッティチェリが生きた時代とはどのような時代だッたのだろうか。時代背景から考えてみます。
ボッティチェリが生きた時代を考えるのに、ヨーロッパの古代末期から中世初期まで歴史を遡り、古代はどうして衰退し中世を迎えたかを、アウグスチィヌスが「神の国」を書かなければならなかったことから紐解き、そして、中世が終わりルネッサンスを迎えるに至ったかを考えてみる必要があります。
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ボッティチェリは何故「ビーナスの誕生」を制作したか No.2 2010年8月9日
ヨーロッパの中世初期はどのような時代であったろうか。
西ローマ帝国の衰退に伴い東から北からゴート族ブァンダル族の侵入を受け不敗を誇っていたローマ軍はしばしば敗れ屈辱的な講和と譲歩を強いられていました。ついに410年に西ゴート族はローマに侵入しました。
このことは、この責任をキリスト教に帰し、ローマ市民は先祖から伝えられた神々を礼拝しているあいだはローマは安泰であり不敗であった。これは、先祖の神々を捨てることから起こった神罰である。昔の栄枯を取り戻すために神々の祭りを復興し、キリスト教を退けなければならないーーー。と云う声がおこってきました。
(私論ですが、ローマ市民にとって異民族の侵入侵略行為に伴う恐怖は今の私にとって想像はできませんーーー。婦女子に対する辱め、男子に対する動物以下の扱いーーー。加えてローマ市民からキリスト教徒達への迫害もあり、当時の西ローマ帝国の地域は弱肉強食の動物社会以下であったことが予想されます。)当時、ローマ市民でありキリスト教徒であるアウグスティヌスは、ローマの勝利も敗北も、神々とは何の関係はない。ローマ人は道徳的に堕落が原因であり、他民族の侵入は「神の笞」とし、キリスト教のために他民族の侵入したのではない。かえってた民族からの残酷な行為がやわらげ、キリスト教は他民族に対してすら大きな感化をおよぼしつつあるのだ。と唱え、「全ての人間は神の元で平等である。」と言う観点から『神の国』を書いたのでした。
アウグスティヌスの『神の国』はキリスト教会を指し、具体的にはカトリック教会でした。これに対して『地の国』をアウグスティヌスは唱えるのであるが、この国を指すのは諸国家でした。
ここから、中世特有の教会と諸候の権力の狭間で民衆は生きなければならない中世に入っていくのです。参考文献 中央公論 世界の名著 アウグスティヌス
岩波書籍 岩波講座 哲学16 哲学の歴史1
ぢcl
ボッティチェリは何故「ビーナスの誕生」を制作したか No.3 2010年8月11日
中世のヨーロッパの絵画はどうであったでしょうか。
先日8月6日に記した中にその徴候が見られます。つまり、ボッティチェリの絵画が異教的と云うことから「虚栄の焼却」の炎に合い焼き尽くされたことはローマ・カトリック教会の宗教的主題に従わない絵画は異教的と云うレッテルを張られ焼却の運命を辿るのです。
中世ヨーロッパは教会と諸候の二重権力構造の中で、教会は、主に人間の精神的側面に関与し「淫らな事柄を想像させる絵画の禁止、生殖と無関係な性的快楽は罪悪である。」という性的欲求の抑圧が、中世ヨーロッパの普遍的信仰であると同時に法でした。
従って、女性の裸体を描くことはタブーでキリストを抱く聖母マリアを描く場合も処女の象徴である青い法衣で身を包むマリア像がパタン化されていきました。しかし、修道院の裏側はどうでしたでしょうかーーー。
全ての人々が処女を神に捧げ満足していたでしょうかーーー。
ジークムント・フロイトは「性的願望(エロスの欲望)の抑圧」が精神病の原因の一つとして想定しています。ボッティチェリは人間の欲するままに女性を描きました。それが「神中心(教会)」の世界観からの解放だったのです。
でも、まだ教会に対しての遠慮もあり解剖学的の不自然な構図として描き上げました。
ここに来て、中世ヨーロッパの終焉をむかえ、ルネッサンスで代表される「人間中心」とする近世ヨーロッパの幕が上がりはじめたのです。
(http://charm.at.webry.info/200803/article_9.html)
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「民衆を導く自由の女神(民衆を導く『自由』)」 2010年8月13日
(「何故、私は起業しなければならなかったかーーー。」と云う問いから随分懸け離た感があります。しかし、私が写真について語る時、どうしても通らなければならない時代の流れの中に絵画の意味するものを分析しなければなりませんでした。そして、それが時代を越えて晃々と光り輝いていることから、写真も絵画と同じ二次元的描写法であることで、作者の意味する事柄を永久に残すことに、現代の化学の力を借り何時でも鑑賞しながら保存できる方法はないものかーーー。と研究を重ねてきました。この考え方に到達するまでに至った経緯について「私の一言」に書くことにしましたが、もう少しお時間を下さい。)
「民衆を導く自由の女神」(正確には「民衆を導く『自由』」であろう。)は1830年に起きたフランス7月革命を主題とするもので1831年5月にウジェーネ・ドラクロワによって描かれた259cm×325cmの大作で、現在ルーブル美術館に保管されています。
中世の宗教的規範から解放された女性像は自由の象徴として描きあげ、三色旗を高く掲げた女性の乳房は母性すなはち祖国をあらわしています。(http://ja.wikipedia.org/wiki/民衆を導く女神)
ここで注目して欲しいのは、「ビーナスの誕生」との大きな違いです。確かに、中世ヨーロッパの幕が下り近世ヨーロッパへと時代は進むのですが、ここまでリアリティーに描かれた女性像に宗教的枠組みは一つも見られません。それどころか、時の権力者の面影も見出せません。主役は一般民衆です。
ここに、近代ヨーロッパの原点があるのでないでしょうか。
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ピカソの「ゲルニカ」 2010年8月17日
1937年4月26日、スペイン市民戦争中ナチス・ドイツがフランコ反乱軍の支援の一貫としてスペイン北部のバスク地方の攻略の為に小都市ゲルニカを爆撃を行いました。この日殺害された市民は全市民7000人中1654人に上がり、負傷者は899人といわれています(実際の戦傷者は300人とするのが有力)。
この、爆撃はナチス・ドイツ空軍の人類史上初の「無差別爆撃」の実験場として敢行したものでした。
その実験とは、いかに効率的に非戦闘員を殺戮するかということで、はじめ戦闘機で機銃掃射をし、市民を建物の中に追い込み、次に建物を爆破・破壊し、市民を封じ込め、最後に建物に火災を起こさせる。というシナリオでした。ピカソは、このことに激しい怒りを込めて、僅か一月後にこの大作「ゲルニカ」を完成させました。それは縦3.5m、横8mのおおきなものでした。
これを書き上げた時の心境をピカソ自身、次のようなことを言っています。
「スペインの戦争は、人民と自由に対する反動の戦争だ。私の全芸術的生涯は、ただ芸術の死と反動に対する闘いのみであった。私が制作中の『ゲルニカ』と呼ぶことになる作品と最近の私の全作品において、スペインを恐怖と死の海に沈み込ませた軍事力に対する私の恐怖感をはっきりと表現している。(こんな時代に)他人に無関心でいられようか。こんなにも豊かなものをもたらしてくれる人生に無頓着でいることなどできるのだろうか。そんな筈はない。絵画は家を飾るためにあるのではない。それは敵に対する戦争の防御と手段でもある。
いつか平和になったらこの作品をスペインに飾るようにしたい。」とーーーー。
(http://www.st.rim.or.jp/~success/picasso.html)この爆撃を境として一般市民を巻き込んだ戦争風景が「シロシマ」「ナガサキ」へと蛮行がエスカレートしていくのです。
余談ですが、このスペイン市民戦争で「崩れ落ちる兵士(人民戦線兵士の死)」と題する写真を残したのはロバート・キャパです。
dicl
時代の変革時に起きる社会状況 2010年8月19日
私は、ヨーロッパ(西ヨーロッパ)の古代から近世に至るまで、美術史を通して人間が持っている本質の一部を眺めてきました。すると、その時代の変革は人間の本能的欲望の葛藤の中に、一方が他方を支配し、やがて支配される側が支配する側を倒し、それが新たな支配者になっていくのが人間社会の構図としての歴史の流が見えて来ました。
古代社会は征服者が被征服者を奴隷として扱い人間的自由を与えず征服者の意のままに使用していました。これを見たアウグスチヌスは「神の国」を書き上げ「人間は神の元で平等であると。」と唱え中世に入っていきました。しかし、神の元で平等であるはずの人間が、神の祭りごとを司る者がやがて人間の精神的自由を奪い束縛しはじめました。そこに出現したのがボッティチェリの「ビーナスの誕生」です。そして、近世にと時代は進むのです。ですが、近世はまたもや人間が人間を束縛する歴史が潜んでいました。教会から解放された人間の一部は君主と言う形で人間を搾取し始めたのです。ついに君主の悪政に反抗し自由を求める民衆はたちあがり、ブジェーネ・ドラクロワの「民衆を導く『自由』」を描きあげました。この絵画は人間の本質を見事に描きあげた闘争の絵画です。やがて、民衆によって選ばれた代表者が、同じ人間を抹殺する蛮行を許すのです。ピカソは人間のもつ野蛮な行為によって人間を含めて動物、それまでに築き上げた創造物までも抹殺する愚行を怒りを込めて描き上げたのが「ゲルニカ」でした。
また、物質面から眺めてみると、人間の欲望を産業革命の元で欲しいままに経済の発達を促し、やがて自然おも破壊にする時代へと進むのです。
今の時代は「情報化社会」と言われています。情報化社会は何もコンピュータの時代を言っているのではありません。この情報化社会は、本来人間が持っているはずの博愛の精神を「知識」の力からで人間相互が認識する為の手段として台頭してきた時代と私は考えるのです。そこには正しい情報の把握が必要となり、正しい情報の把握には「哲学」が必要です。
今の時代、哲学の貧困と言われています。この事態が続くと、またもや人間の持つ蛮行が鎌首を持ち上げるのでないでしょうか。
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写真の持つ意味(絵画をも含む) 2010年9月30日
私は、絵画(「ロンドン塔の落書き」をも含めて)を通して人間のもつ本質的なものを歴史の中から眺めてきました。時の権力者への抗争の一つの手段として、またこの世に生きていた証として、その時代に生きる人々の本質を垣間見るような気がします。
写真は1822年、フランスのニエプスがヘリオグラフィーを考案し、この方法で撮影した「自室からの眺望」が現存する世界最古の写真と言われています。ニエプスの死後ニエプスの協力者であったダーゲルがその技術を受け継ぎ1837年ダゲレオタイプの技術を完成させ、現在の白黒写真の基礎を築き上げました。
このダゲレオタイプの写真技術はヨーロッパ及びアメリカで歓迎され世界的にセンセーショナルを巻き起こし中産階級の間でポートレートの隆盛を極め、技術開発に拍車がかかりました。
何故、ポートレート写真の隆盛を兆したのでしょうか。
私は思うのです。
絵画と異なり、短時間でリアリテーに出来上がる写真の魅力は当時の中産階級の人々に魅了性を与えたのです。そして、『私は、ここに居る。』というアピールでもあり、見方をかえると、あの「ロンドン塔の落書き」に通じるところがあるのです。ロバート・キャパの「ちょっとピンぼけ」として発表された1944年のノルマンディー上陸作戦の戦闘シーンの写真は恐怖の中に生きている人間の証の表現でないでしょうか。そして、それはゲルニカに通じるのでないでしょうかーーー。
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全ての写真は、撮影者にとって大切なのです。2010年10月9日
今まで、著名な写真、絵画について考えてきました。これからは、私達の残す写真について考えてみます。
始めてカメラを手にしてシャッターボタンを押した時、何を意識したでしょうか。私は祖母の姿を末永く画像として残すことの喜びを感じシャッターを押したことが今でも鮮明に残っています。今から50年程前の話です。
祖母にカメラを向けシャッターを切り、メディアに残し、後日そのメディアを現像している時、暗室の案全光に照らされ浮かび出てきた祖母の姿に感動し涙が出て来る程の喜び感じて作業を続けていました。しかし、その感動を与えてくれた写真は今はありません。何時しかアルバムの中で色褪せ(定着後の水洗不足のため黄色に変色)てしまいました。大切だった人の遺影、最愛の我が子の写真、可愛がっていたペットの写真などは、何時も写した時のままに鮮明に残しておきたいと考えるのが普通でないでしょうか。
今は、愛する人の写真をロケットの中に入れ何時も持ち歩くことができる時代です。しかし、その写真も何時しか汗などで変色してしまい面影がなくなっていることが往々にしてあります。
乳剤メーカ、プリンタメーカはそこのところについて研究を重ねています。しかし、まだ完成をしていません。これらのメーカは「100年経っても色褪せしません。」という歌い文句で開発をすすめていますが、100年間色褪せさしない写真(プリント)を保つためには条件がありました。
つまり、光に当てない(紫外線による色素の破壊の警告)、アルバムに挟み空気に晒さない(有害ガスからの隔離)等などです。しかし、考えてみて下さい。光に当てずにどのようにして鑑賞したら良いのでしょうかーーーー。空気に晒さないで写真を展示するにはどのようにしたら良いのでしょうかーーーー。私は、そこのところを考えました。何時も写真を持ち歩くにはどうしたら良いか。光に当たっても色褪せのしない写真を作ることが出来ないか。浴室で写真を鑑賞することはできないかーーー。等などです。
そして到達したのが「ディクル」だったのです。